プレイバック少船〜青い絆(22)
最近、自宅のパソコンの調子が悪く、電源スイッチを押してもなかなか起動しない。
デスクトップの画面に落ち着くまで、数時間かかるようになった。
今は、電源をおとさないようにしています。
イノッチ、早く助けてくれ〜〜〜。
じゃ、パソコンが動いてるうちにブログの更新を。
3日目/7月29日
大分の塔で慰霊祭を終え、バスに乗って「優美堂」の駐車場へ移動した。
すぐ近くだ。
優美堂の前の横断歩道を渡ると、「ひめゆりの塔」がある。
この塔は、終戦の翌年(1946年)、地元の方々がこの地に散らばっていた遺骨を収集し、
ここに集めてこの碑をつくり、慰霊したのが始まりといわれている。
ガイドさんから話を聞いて、団員たちは手を合わせた。
隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」は、1989年に建てられました。
戦争を知らない私たちに戦争の悲惨さを伝え、犠牲となった多くの女学生たちの魂を祭るために。
大分県少年の船では、毎年、講話を聞く。
A,Bグループ各300人でいっぱいいっぱいのホールで、
元ひめゆり学徒隊だった津波古(つはこ)ヒサさんが、当時の様子を語ってくれた。
みんなの顔は真剣だった。
やはり、戦争の悲惨さは、体験した人ではないと語れない。
展示室に飾ってある写真は、ひめゆり学徒隊の教師と生徒227名の生きた証ということです。
今後、もしご家族やお友達と沖縄に来ることがあったら、ぜひゆっくり資料館を見学して欲しいと思う。
デスクトップの画面に落ち着くまで、数時間かかるようになった。
今は、電源をおとさないようにしています。
イノッチ、早く助けてくれ〜〜〜。
じゃ、パソコンが動いてるうちにブログの更新を。
3日目/7月29日
大分の塔で慰霊祭を終え、バスに乗って「優美堂」の駐車場へ移動した。
すぐ近くだ。
優美堂の前の横断歩道を渡ると、「ひめゆりの塔」がある。
この塔は、終戦の翌年(1946年)、地元の方々がこの地に散らばっていた遺骨を収集し、
ここに集めてこの碑をつくり、慰霊したのが始まりといわれている。
ガイドさんから話を聞いて、団員たちは手を合わせた。
隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」は、1989年に建てられました。
戦争を知らない私たちに戦争の悲惨さを伝え、犠牲となった多くの女学生たちの魂を祭るために。
大分県少年の船では、毎年、講話を聞く。
A,Bグループ各300人でいっぱいいっぱいのホールで、
元ひめゆり学徒隊だった津波古(つはこ)ヒサさんが、当時の様子を語ってくれた。
みんなの顔は真剣だった。
やはり、戦争の悲惨さは、体験した人ではないと語れない。
展示室に飾ってある写真は、ひめゆり学徒隊の教師と生徒227名の生きた証ということです。
今後、もしご家族やお友達と沖縄に来ることがあったら、ぜひゆっくり資料館を見学して欲しいと思う。