少年の船の平和学習
「第33回大分県少年の船」の団員が決定し、だんだんとブログのアクセスが増えてきました。
見てくれてありがとうございます。
これから少しずつ、少年の船の魅力をご紹介していきましょう。
大分県少年の船の行き先は、33年間ずっと「沖縄県」です。
過去には、台風や気象条件のために、急きょ関西方面に変更したこともありますが、
当初の計画ではずっと沖縄県です。
それには、少年の船の目的の一つに、「平和学習」があるからです。
少年の船本研修3日目には、沖縄本島南部、糸満市にある「大分の塔」を訪れます。
私たちはここで慰霊祭を行います。
大分県少年の船が必ず行う行事です。
大分の塔は、沖縄戦で戦死した大分県出身の兵士979人の魂を慰霊するために、昭和40(1965)年に立てられました。
小学生団員代表が、花・線香、そして船の中で平和の祈りを込めてみんなで折った千羽鶴をおそなえします。
3年前は、少年の船30周年の記念碑が、大分の塔の脇に建てられました。
つづいて「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」に行きます。
「ひめゆりの塔」は、写真右下(帽子の上)の小さな石碑のことを言います。
後の大きいものは、犠牲者の名前が刻まれています。
ここには、沖縄戦の期間中、病院がありました。
病院と言っても、建物があったわけではありません。
洞窟の中に、ケガをした兵士の治療や看護ができるようにスペースを設けただけのものです。
太平洋戦争のさなか、ここで、当時中学・高校の年齢の女子生徒たちが、必死に兵士たちの看病につとめました。
しかし、しだいにアメリカ軍の勢力が大きくなり、とうとう集団自決という道をとらざるを得なくなったのです。
「ひめゆり平和祈念資料館」には、戦争中の生活についての資料や品物のほか、
ひめゆり学徒隊の顔写真や、当時の生々しい体験談・感想文も展示されており、
この一つ一つに、私たちは、足を止めて見入ってしまいます。
私たちはここで、ひめゆり学徒隊として、兵士の看護にあたったおばあさんの話をお聞きします。
戦争って何なんでしょう?
平和ってどんなに尊いものなのでしょうか?
この日、沖縄の土を初めて踏んだ600人の大分っ子が、セミさえも黙らせる・・・・・
そんな空気に包まれる平和学習が、33年間も続いています。
大分県少年の船の目的地は、これからも沖縄じゃなきゃいけない。
私はそう思います。
見てくれてありがとうございます。
これから少しずつ、少年の船の魅力をご紹介していきましょう。
大分県少年の船の行き先は、33年間ずっと「沖縄県」です。
過去には、台風や気象条件のために、急きょ関西方面に変更したこともありますが、
当初の計画ではずっと沖縄県です。
それには、少年の船の目的の一つに、「平和学習」があるからです。
少年の船本研修3日目には、沖縄本島南部、糸満市にある「大分の塔」を訪れます。
私たちはここで慰霊祭を行います。
大分県少年の船が必ず行う行事です。
大分の塔は、沖縄戦で戦死した大分県出身の兵士979人の魂を慰霊するために、昭和40(1965)年に立てられました。
小学生団員代表が、花・線香、そして船の中で平和の祈りを込めてみんなで折った千羽鶴をおそなえします。
3年前は、少年の船30周年の記念碑が、大分の塔の脇に建てられました。
つづいて「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」に行きます。
「ひめゆりの塔」は、写真右下(帽子の上)の小さな石碑のことを言います。
後の大きいものは、犠牲者の名前が刻まれています。
ここには、沖縄戦の期間中、病院がありました。
病院と言っても、建物があったわけではありません。
洞窟の中に、ケガをした兵士の治療や看護ができるようにスペースを設けただけのものです。
太平洋戦争のさなか、ここで、当時中学・高校の年齢の女子生徒たちが、必死に兵士たちの看病につとめました。
しかし、しだいにアメリカ軍の勢力が大きくなり、とうとう集団自決という道をとらざるを得なくなったのです。
「ひめゆり平和祈念資料館」には、戦争中の生活についての資料や品物のほか、
ひめゆり学徒隊の顔写真や、当時の生々しい体験談・感想文も展示されており、
この一つ一つに、私たちは、足を止めて見入ってしまいます。
私たちはここで、ひめゆり学徒隊として、兵士の看護にあたったおばあさんの話をお聞きします。
戦争って何なんでしょう?
平和ってどんなに尊いものなのでしょうか?
この日、沖縄の土を初めて踏んだ600人の大分っ子が、セミさえも黙らせる・・・・・
そんな空気に包まれる平和学習が、33年間も続いています。
大分県少年の船の目的地は、これからも沖縄じゃなきゃいけない。
私はそう思います。